聴くだけジャズファン

 ジャズ黄金時代のニューヨークやロスアンジェルスでは、ジャズのライブで演奏してるのを聴きに来る有名ジャズメンが大勢いた。これはエラ・フィッツジェラルドが歌うのを最前列でデューク・エリントンが陣取り、そのすぐ後ろにベニー・グッドマンという、恐ろしい光景である。
http://www.jacksonfineart.com/herman-leonard-521.html
こんなふうに、演奏者が客であり、また演奏者でもあるという不思議な構図があったわけだ。

 このあいだの高槻ジャズストリートの人だかりを見ると、こんなにジャズファンがいるわけないと思ってしまう。この見物客がジャズファンなら、当店はもう繁盛して儲かりまくるはずだけど決してそうはならない(^^;
 ひょっとすると、聴くだけのジャズファンよりもジャズを演奏する人数のほうが多いのではないか。「小説家は小説好きの成れの果て」と言った作家がいたけれど、ジャズの場合必ずしも「ジャズメンはジャズファンの成れの果て」ではないように思う。レコードやCDを聴いて、辛抱たまらなくなって楽器を始めるというよりも、「サックスでもやってみよかなぁ?」とまず楽器を手に取り、それからソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンを聴き始め、すぐに上手になってライブをやるようになる、というパターンは、楽器のできない聴くだけの人間からするとじつに悔しい。

 ジャズMC不要論

ジャズのライブで、いつもこれはちょっとな〜と思うのが曲の合間のMC。さだまさしや谷村新司くらい面白い話ができないなら無理に喋らなくていいのに。
「次は私の大好きな曲で…」
「別れた恋人のことを歌った曲で…」
「サックス奏者の誰某が作曲した」
MCが下手なのはジャズメンの伝統なのだろうか。ひどいのになると、ステージ上で内輪話することもある。こうなるともうプロ意識が欠落してるとしか思えない。
一曲ごとに休憩しないと息が切れる場合もあるだろうが、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスは一時間以上ぶっ通しで演奏していたではないか。ジャズメンにMCは不要である。

 B級、C級ジャズが好き

 ジャズ三大レーベルと呼ばれるプレスティッジ、ブルーノートそしてリバーサイドも、我々日本人が思い浮かべるような大手レコード会社ではなく、町のレコードショップが始めたような、今でいうインディーズみたいなレーベルだった。だからマイルス・デイヴィスがプレスティッジから大手のコロムビアに移籍したことは、モダンジャズ界における一大出世ともいうべき事件だったのだ。
 そのことはさておいて、プレスティッジやブルーノートやリバーサイドが粗悪品のレコードを作って売っていたというわけではない。予算の制限はあってもそれなりにちゃんとしたレコードを作っていた。じつはこれらのマイナーレーベルよりさらに適当というか、いいかげんなレコードを作って売ってたレーベルも無数に存在した。ほとんどがレコーディングに来て、終わったらギャラを受け取ってあばよという感じのユルいセッションだったが、なかには魅力的なB級、C級名盤みたいなのもあって、ダンス音楽だろうとムード音楽だろうと、うまい人は適当に演奏してもいいレコードになってしまう。1950年代のジャズはじつにレベルが高かったな。

 ついにステサンデビュー!

 と、いっても広告に名前が出るだけなんですが(^^;
※以下の広告は6月2日発売の【ステレオサウンド誌No.195】に掲載予定

 来たる7月5日(日)、阪神御影のデリカテッセン ポラリスで英デッカカートリッジを使用したレコードコンサートが開催されることとなった。時間は13時〜18時、入場料がワンドリンク付きで500円。どういうわけかJimmyJazz後援ということになっている(一円も払ってないのに)。

 ほんとうは、当店のお客様でもあるオーディオ開発研究オージックの小坂さんが、「またJimmyJazzさんで試聴会をさせてもらわれへんやろか?」と持ちかけてくださったのだが、当店の定休日(月曜)ではなかなか人が集めにくいだろうということで、当店に出入りしている理美容ディーラーの営業マンであるムラオ君の奥さんのお店でやってはどうかと話を振ったのだ。
 もともとムラオ君はアナログレコード好きで、頼まれもしないのに奥さんの店でレコードをかけては「音が大きい」とお客に迷惑がられているというから、オージックとヨシノトレーディングの高級機器を持ち込んで思う存分レコードコンサートをすればよろしいと、小坂さんを紹介したらうまく話がまとまったようである。

 オーディオ店などでもデッカのカートリッジを聴く機会はあまりないと思うし、ムラオ君は昭和の歌謡曲なども好きそうなので、とても楽しい会になりそうだ。ちなみにわたしは7月5日日曜は営業のため参加できない(^^;

 ブルーノート・オリジナル

 ブルーノートレーベルには、”ブルーノート・オリジナル”と呼ばれる名曲がたくさんある。主にレコーディングセッションに参加したジャズメンが書いたオリジナル曲で、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」やジョン・コルトレーンの「ブルー・トレーン」、ルー・ドナルドソンの「ブルース・ウォーク」、ハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」などが有名だ。
 面白いことにライバル会社のプレスティッジやリバーサイドにもジャズメンオリジナルの名曲はあるのに、「オレオ」を”プレスティッジ・オリジナル”と呼んだり、「フルハウス」を”リバーサイド・オリジナル”と呼んだりはしないのである。
 おそらく昨日も述べたように、ブルーノートではリハーサルのギャラも出たということが影響してるのではないか。つまり、ブルーノートのレコーディングの際には、新曲を持ってきて打ち合わせをして練り上げるだけの時間の余裕があったということだ。
 先に挙げた”ブルーノート・オリジナル”の4曲は、意図的にブルースのコード進行のものを選んだのだが、ブルーノートにはこうしたブルースをちょいとひとひねりしただけで名曲に化けた例が多い。ジャズはあまり入念に考えすぎても野性味が殺がれるから、このくらいでダーッとラフに作ってしまうのがいい。どの曲も、同じブルースとは思えないほど多彩で魅力溢れる演奏に仕上がっている。

 ブルーノートの重厚感

 空気を読める職人ミュージシャンを呼んできて、チャチャッと録音してチャチャッとプレスするのがジャズレコード、といえばそれはそうなのだが、なかでもちゃんと責任を持って良質なレコードをリリースしようというレーベルもあった。その代表がご存知ブルーノートレーベルだ。本番前のリハーサルにもギャラを払い、ミュージシャンに敬意を持って接した社長兼プロデューサー、アルフレッド・ライオンのドイツ人気質というか、物作りに対する姿勢が名門ジャズレーベルとして高く評価されている。(他のジャズレーベルとは待遇が大違いなのである!)
 CD時代になってからはブルーノートのレコードを買うという重量感と高級感、ジャケットの放つ迫力といったものがなくなってしまったけれど、一枚一枚丁寧に作られた1500番台、4000番台のラインアップは今も一流品としての輝きを放っている。ブルーノートサウンドに相応しい重厚な音で聴きたいものである。たとえリマスターされたデジタル音源であっても、音溝をほじるようにサウンドを詰めていくとブルーノート特有のアナログレコードを聴くような重厚感が蘇る。ホレス・シルバーは「ブルーノートは最高のビニールを使っている」と言ったとか。出てくる音楽は嘘をつかないのだ。

 カゾクガゴーン

たまにはイヤ〜な気分になりたくて、オンデマンドでサスペンス映画の「ゴーン・ガール」を観た。笑いもアクションも踊りも音楽もない、こういう地味な映画は一人でじっくり観ないと、いつもみたいなガチャガチャした環境では無理。ちょうどみんな外出していたのでゆっくり観れた。観たあとで誰かと良かったねと語り合うのではなく、じんわりとイヤ〜な気分を味わうのもまた楽しい(^^;

 空気嫁

 世の中には厚かましい人がいるという話をアップしたが、えてして慎ましい人は自分のことを言われてると思い、厚かましい人は自分のことと気付かないものである(^^;
 そもそも演奏の空気を読みすぎるほど読むのがジャズファンで、空気を読めない人は当店の顧客にはいないはず、という判断で仕切り直し。

 空気を読むといえば、ドラマーこそもっとも先を読んで演奏しないといけないパートである。「奴はオレの動きを読んでいた」とマイルス・デイヴィスに言わしめたのは”フィリー”・ジョー・ジョーンズだ。マイルスの繰り出すトランペットに、待ってましたとばかりに叩き出す”フィリーズ・リック”は第1期黄金のクインテット時代のハイライトだった。
 結局参加は叶わなかったのだが、同じくマイルスバンドに誘われた、おそらく唯一の日本人ドラマーである村上”ポンタ”秀一は、ものすごい数の歌謡曲の録音にも参加している。なんと自伝には「歌詞がないと叩けない!」と言ったというエピソードが出てくる。ドラムなんだから歌詞なんかなくても適当に演れそうなものだが、そこまでちゃんと理解して演奏するのが一流のドラマーというものなんだろう。ジャズは空気を読めなきゃだめだ。

 演奏が見える音

 オーディオの再生能力が上がってくると、ある時点から不思議なことに奏者が弾いている様子がありありと想像できるようになる。コントラバスならこう弾きながらビブラートをかけてるなとか、ドラムスはこういう感じで叩いているなとか、ビジュアルで見えるようになるのである。
 それは、スピーカーから出てくる音を脳が解析して見えるわけではなくて、今まで経験した記憶のなかにある演奏シーンを呼び出して、いま鳴ってる音楽に重ね合わせるようなイメージ。音が良くなってくると、こういうデジャヴ的なことが頻繁に起きる。
 「位相を正確に再現すれば、立体的な像が目の前に現れる!」なーんて言えばオーディオ的には夢のある話だけれども、やはりどんな形の楽器で、どんな風にして演奏するのか見た事がない場合には、音だけ聴いて演奏シーンをイメージすることは無理なのである(^^;

 時代小説「ウン・ポコ・ローコの変」

1951年5月1日 WORスタジオ バド・パウエル三重奏団

 こないだアート・ブレイキーがな、なんかしらんけど頭にターバン巻いてイスラム風の曲を演っとたんや。リズムがめっちゃ賑やかでな、いま流行ってる”アフロ・キューバン”っちゅーやつらしいわ。
 ぉぅ、マックス、マックス、きのう夜店でエエもん買うてきてやったで。見てみぃ、カウベルや。これでアートのシンバルみたいに叩いたら俺ら三人でもごっつい賑やかになるやろ?

 ほな新曲行くで、「ウン・ポコ・ローコ」テイクワン!

 アカンアカン、マックス、自分なんぼなんでもやかましすぎやで!カウベル叩くのは、その半分くらいでええねん。わかったな?行くでぇ、
 「ウン・ポコ・ローコ」テイクツー!

 ちゃうちゃう、ちゃうがなマックス〜。自分、余計にうるさなっとるやんけ。もうちょっとカウベル控えめに叩いてくれや〜。たのむで〜、ええな?
 「ウン・ポコ・ローコ」テイクスリー!

 …、マックス、もうカウベルええわ!

※あくまでMasterの創作で史実ではありません

 ジャズ的教養

 ジャズ初心者が知識を深めようとして、ビル・クロウの書いた本「ジャズ・アネクドーツ」を開いてみたとする。知らない名前ばかりたくさん出てきて、おそらく最後まで読み切るのは不可能だと思う。
 ジャズの歴史は、ちょうど日本の戦国時代や幕末にも似て、局地的に豪傑たちがしのぎを削る様子がわかってくると俄然面白くなってくる。吉田松陰が高杉晋作にどのような影響を与えたかと想いをめぐらす歴史ファンのごとく、チャーリー・パーカーはマイルス・デイヴィスにどのように接したか、あるいは迷惑をかけたか。そのマイルスがジャッキー・マクリーンにどんな仕打ちをしたかとか、知らなくてもジャズは楽しめるけれど、そういった知識が積み重なってくると、一種のジャズ的教養といったものが形成されてくる。
 たとえばコロムビアのライブ盤『マイルス・デイヴィス・アット・カーネギー・ホール』では、ポール・チェンバースのブンブンブンというイントロに続いて愛らしい「いつか王子様が」のメロディが演奏されるが、すぐに尻切れトンボとなる。演奏中にマックス・ローチが抗議プラカードを持ってステージに座り込んだせいだ。聴いてると短い演奏のなかで会場のその不穏な空気が伝わってくる。エピソードを知らなければただのミステイクだが、知ってればそうなのかと感心できる。
 トランペットのチェット・ベイカーはチャーリー・パーカーと共演して褒めれらたことを生涯心の支えにしていたとか、テナーのジョン・コルトレーンはビル・エヴァンスのピアノだとバンドがスイングしないとマイルスに文句を言ってたとか、ジャズを取り巻くいろんな人間模様が見えてくるとおのずと聴き方も違ってくるのである。ただ、このようなジャズ的教養を披露できる場はほとんどないから、知っててもあまり自慢にはならない(^^;

 Masterはミュージカルが大好き

 人によってはミュージカルが大嫌いという方もいらっしゃる。ジャズファンでオーディオマニアでもあるタモリも「あの唐突に歌い出すのが変だ」という。わたしも最初はそう思ったが、映画「ニューヨーク・ニューヨーク」でライザ・ミネリに感心してから考えを改め、今ではミュージカルが大好き。古くはフレッド・アステアの華麗なダンスから、近年では漫画「愛と誠」をミュージカル仕立てにした映画もよかった。特に最近、プロポーズのサプライズとして「フラッシュモブ」という、通行人がみんなサクラでいきなり踊り出すパフォーマンスが流行ってるが、あれなんか他人事なのに観てるだけで泣くほど感動してしまう(^^;
 まあ、何事も好き嫌いはあるから、無理に好きになれとは言わないけど、あのマイルス・デイヴィスだって若い頃はフレッド・アステアに憧れていたのだ。名盤『カインド・オブ・ブルー』のセッション時に首に巻いたネッカチーフを見ると、マイルスもアステアみたいに軽やかに歌って踊ってみたかったんじゃなかろうかと想像を逞しくする。
 というわけで今夜は友人宅で「舞妓はレディ」を観てきます( ̄▽ ̄;

 シアターっていいな

 昨日見せてもらって、やっぱりホームシアターいいなあ、これならもう映画館並みだなあと感心した。もともとオーディオマニアの源流は、自分専用の映画館を所有するというのが最大の目標としてあり、それができないから映画音楽のサウンドトラックのレコードをかけて、観た映画のシーンを思い出すという、ややスケールダウンした趣味だったのだ。
 昔の映画フィルムは使っているうちに劣化して画面に”雨が降った”ものだが、これだけDVDだブルーレイだというデジタルデータで、いつでも何度でも好きな時に大スクリーンで観れるとなると、マニアの根源的な欲求はこれで満たされてしまうのではないか。スクリーン、プロジェクター、サウンド全部揃えてもせいぜい50万ほどである。
 しかし実際にわたしがこれを買うかというと、やはり二の足を踏む。テレビと違っていちいち暗くして映すのは面倒だし、50万あったら液晶の4Kテレビを買ってしまうかも?やはり他所様のお宅で観せてもらうのが楽チンでもっとも贅沢な映画鑑賞法だ。

 天国は、ほんとうにある、に決まってる

友人が100インチスクリーンのホームシアターを設置したというので、映画上映会をやろうやろうという話になった。第一回目の本日は、実話をもとにしたという映画「天国は、ほんとうにある」。
牧師の子で4歳のコルトン坊やが感染症の病気に罹って手術を受けるが、そのとき自分が医師に手術をされてる様子を上から見ていたことや、父である牧師が病院内の礼拝所で悪態をついたこと、母が友人たちに祈ってほしいと電話していたことを語り出す。天国で天使たちが歌ってくれたこと、イエス・キリストに会い膝の上に乗せてくれたことや、イエスが馬を飼っていたということ。半信半疑だった父親の牧師は教会の説教としてその話をするが、聖書に書かれてないことに信者たちの混乱をまねく。最後にはコルトン坊やに流産した姉がいたという、牧師夫妻しか知り得ない事実を話して、牧師はついに天国の確信を得るといったストーリー。
信者から「彼は臨死体験をしたのか?」と訊かれ、手術中に死にそうになったというわけではないと説明すると、「臨死体験でないのに天国を見てくるのはおかしいのではないか」というような、ある種の心理パニックを起こしているのが印象に残った。
2000年前だけでなく、いつの時代にも神は使者を送り込み、我々に信じるかと繰り返し語りかけているのだと思う。

 仕事にリズムを!

 昼間ガラガラで今日はヒマかなと油断してストラビンスキーとかクレモンティーヌとかかけて読書してたら、だんだん忙しくなってきて夕方から夜までびっしり埋まっていま終わったところ。途中でどうも仕事がはかどらないなと思い、いつの間にか下がっていたボリュームを2目盛りほど上げるとライオネル・ハンプトンのビブラフォンも乗ってきて盛り返した。自分が楽しいかどうかよりも、仕事にリズムを生み出すために適当な音量というのがあるのだ。従業員かお客様の何方か一人でも音楽に聞き入り乗ってくると、つられて皆んなが乗ってきて店全体がスイングしはじめる。そうなればしめたものだ。しかし逆に、お客様が来なくて誰もいない店内で、必要以上の大音量というのもなんだか虚しいものである(^^;

 派遣ジャズメンお断り

 マイルス・デイヴィスがマイナーレーベルのプレスティッジから大手コロムビアへ移籍する契約を交わす際に、コロムビアが提示した条件のひとつが、メンバーが固定したバンドを組んでレコーディングするということだった。それまでのジャズの日雇い労働者的な慣習に依らず、やはりある程度かっちりした内容のレコードを売るというポリシーがあったのだろうと推測する。
 同じようにコロムビアはトロンボーンのJ.J.ジョンソンとも契約を交わし、『ダイヤルJ.J.5』というレコードを製作している。これもやはりJ.J.のレギュラーバンドで収録されていて、ピアノのトミー・フラナガン、ウィルバー・リトルのベースにエルヴィン・ジョーンズのドラムという名盤『オーバーシーズ』のピアノトリオ、それにボビー・ジャスパーのテナー&フルートを用いてよく練られ充実したサウンドを聴かせる好盤である。

 日雇いジャズ労働者

 ジャズのミュージシャンは、他ジャンルの演奏者から見たらちょっと信じられないようなプロセスでもって演奏しながら生活している。たとえばレコーディングするにしても、スタジオに呼ばれて譜面を渡され、簡単な打ち合わせとリハーサルをして即録音。ギャラの小切手をもらって解散、というような、じつにいいかげんといえばいいかげんだが、それで立派なレコードになるような演奏ができる人たちなのである。
 ロックでもクラシックでも一流と呼ばれるような人を連れて来て、さあ今日中に新しい音楽のレコードを作れと言われてできるかといったらまずお手上げだろう。

 パッと提示された曲を瞬時に理解して演奏に反映できる技量と反応のよさは一種の職人技のようである。職人一人ひとりが日雇い労働者のように集められ、パッと演奏しては解散する。だからジャズにはグループ名で出ているレコードが少なく、ほとんど個人名で表記されているものばかりだ。
 しかし、そういった適当な寄せ集めセッションよりも、やはり固定されたメンバーによるグループで練り上げた演奏のほうが充実してるのは言うまでもない。代表的なのがマイルス・デイヴィス・クインテットによる”マラソンセッション”と呼ばれたプレスティッジの「ing」四部作、『リラクシン』『スティーミン』『ワーキン』『クッキン』だ。毎夜クラブで演奏していたレパートリーを、レコード4枚分全部一発録りで完成させてしまった。そのクオリティ、恐るべき完成度。

 ロックまがいのジャズなんて

 「ジャズは正面から行かないで裏口から入る」という理解を持って、マイルス・デイヴィスの『アガルタ』『パンゲア』を聴くと、頭の固いジャズファンから「ロックまがい」と唾棄されたこれらの作品が、まぎれもないジャズであることが見えてくる。歪んだエレキギターやキーボード、8ビートのリズムにパーカッションといった編成だけを見てロックと判断するのは早計というもので、この手法はやはりジャズなのだ。
 編成と音楽性がよく似ているサンタナの『キャラバンサライ』では、「アランフェス交響曲」まで登場してカルロス・サンタナのマイルスへの傾倒ぶりが伺えるのだが、やってることとサウンドはマイルスとそっくりなのにどういうわけかこちらはロックに聞こえるのである。
 「正面切って行くか、裏に回るか」「正対して向き合うか、斜に構えるのか」他の音楽とジャズとの違いはじつはたったこれだけのこと?と言ったら怒られるだろうか(^^;

 照れ屋さん

 ジャズはなんだかんだ言ってもええかっこしいの音楽である。決して本音を見せないよう、化粧を厚くしたり着飾ったりして仮面を被っている。正面から堂々とぶつかることもしない。横から、裏口からサッと滑り込むようなずるい人たちだ(^^;
 このことからもわかるように、ジャズは不良と呼ばれる人たちと親和性がある。
 ロックも不良の音楽とされるが、まだ正面切ってオトシマエをつける感覚を持っている。いっぽうジャズにはそれがない。ジャズの感覚だと根性見せるのはダサくて、うまく逃げたり躱したりするのがジャズ人の真骨頂なのだ。もちろんジャズな人のなかにもMasterのように真面目で誠実なカタギの人も居るのだが、本心を見せるのは正直照れ臭い。ええかっこしいでジャズな人は、小さな良心を隠し持っている照れ屋さんなのである。

 決して赦されない失敗

 誰もがみんな賢く失敗せず、スマートに生きたいと願うけれど、棺桶の蓋を閉めるとき振り返り見て、一度も失敗のなかった人生こそ最大の失敗であるというではないか。失敗をしなかったということは、挑戦をしなかったこととイコールなのだ。
 失敗は大なり小なり誰もが経験する。なかには「決して赦されない失敗」というのをしでかすこともあるが、結局どうにか赦されて現在がある。わたしも数え切れないほどたくさん失敗をして、これは絶対赦してもらえないなと思って謝ったら、あっさりと赦してくれて器の大きさに驚かされたこともある。自分が相手の立場なら絶対に赦さないだろうと思うのに、そうやって赦してくれる人がいると、自分の小ささを恥じると同時に、こんどは他人を赦してあげることを学ぶのだ。

 失敗してもいいからやってみろ

今日は久しぶりに一日中テレビを観て過ごす。撮りためたドラマとオンデマンドでクリント・イーストウッド監督の映画「ジャージー・ボーイズ」を観た。「シェリー」「君の瞳に恋してる」などのヒット曲で知られるフランキー・ヴァリとフォー・シーズンズの物語。1951年、フランキーは理容師見習いをしていた。同郷イタリア系の権力者の客が「あいつにおれの顔を剃らせてやれ。切ってもかまわん」と言ったそばから切ってしまう。さすがに「切ってもかまわん」とは言われなかったが、見習い時代のわたしに「にいちゃん、失敗してもいいからやってみろ」と言ってくれた人がいた。友情と栄光、そして離反というよくあるバンドのストーリー。フラッシュモブ風のエンディングがよかった。

 JimmyJazzは誰のもの?

 では「5281」といえば何?えっ、知らないの?当店の電話番号ではないか(^^;

 さて、当店を知る人が他人に語るとき、「JAZZしかかけない理容室」と紹介されることが多い。たしかに「ジャズの聴ける理容室」と看板を掲げているが、「オレはJAZZしかかけない」なんてひとことも言ってない。しかし、紹介するほうはそうでないと都合が悪いらしく、ストリングス入りボーカルやフュージョンをかけてたら、「これもJAZZなんですか?」と不服そうに注意される。Masterの意向はともかく、どうも当店はジャズしかかけてはいけないらしい。JimmyJazzはお客様のものなのだ。

 一度は使ってみたいJAZZの言葉

 ちょうどいま読み始めた小説の冒頭に、いきなりセロニアス・モンクの「アイ・サレンダー・ディア」が登場して驚いた。べつにジャズの話を読みたくて買った本ではなかったのに(^^;
 ジャズのことを「JAZZ」と表記する人は多い。「ROCK」とか「CLASSIC」は普通に「ロック」「クラシック」と書くのに、なぜジャズだけ「JAZZ」なのか?いや、気持ちはわかる。なんとなく言ってみたい響きがあるのだ、ジャズ、もといJAZZには。
 ジャズの使ってみたい用語として一番目にくるのが「JAZZ」だろう。ジェイエーゼットゼットと書くだけで、なんだか自分が偉くなったような気がするんだから簡単なものだ、さらにこれが進むと「俺はJAZZしか聴かない!」と訊かれてもいないのに口走るようになるが、麻疹みたいなもので放っておけば治る。
 次に人名として、使ってみたいのは「ジョン・コルトレーン」。「コルトレーンのバラードがさあ…」とか言ってみたくて、間違って『アセンション』とか買ったりする。なんとなく「ドストエフスキー」に響きが似てるからだろうか、「エリック・ドルフィー」も名前だけで人気がある。ジャズの帝王「マイルス・デイヴィス」は名前が地味なのか初心者はあまり近寄らないが、小説に出るべきはモンクではなく、まずマイルスであるべきだ、とわたしは思う。
 「ブルーノートの1500番台」というのも一度は言ってみたくなるフレーズだ。なぜ4000番台でなく1500番台なのか?そのほうが響きがかっこいいからである。わたしはまだお目にかかったことはないが、ソニー・クラークの『クール・ストラッティン』のことを「1588」と番号で呼ぶ人もいるらしい。
 なんとも微笑ましいではないか( ̄▽ ̄;

 ジャズパニック症候群 その2

 ’80年代に「E.Yazawa」と書かれた矢沢栄吉のステッカーが流行したが、そのうち「近藤真彦」や「中森明菜」と書いたステッカーも登場した。矢沢のステッカーはロゴがデザインされてたからまだ理解できるが、「近藤真彦」や「中森明菜」に至っては、ただ名前書いてあるだけやん(^^;
 しかし、わたしのところにもよく「JAZZ」とだけ書かれただけのステッカーや絵葉書を贈ってくださるありがたい方がいらっしゃる。なかなかかっこいいデザインのものもあり、もれなく一度は店内に飾らせていただいてる。お気持ちじつにありがたい。でもちょっと考えてみてください。皆さんがヘヴィーメタル・ロックの大ファンだったとして、わたしが「HEAVY METAL」と書いたステッカーや「ROCK」と書いたステッカー、あるいは演歌ファンなら「艶歌」、ポップス好きなら「POPS」と書いたステッカーをあげたらどうですか?まだ「近藤真彦」は具体的でいい。ファンであるという主張にもなるけれど、クラシックファンが「CLASSIC」の文字だけのステッカーを車に貼るともはや意味不明( ̄▽ ̄;
 「JAZZ」の四文字は、やはり目にしただけで特別な感覚を呼び起こすようである。

 ジャズパニック症候群

 わたしがジャズの聴ける理容室のオーナーだと知ると、とりあえず何かジャズのことで話を合わせようとしてくださる方が多い。若い頃阿川泰子が好きだったとか、ハービー・マンをよく聴いたとか。彼らはサービスのつもりで言ってくれてるのだと思うが、わたしはそんなにハービー・マンの話をしたいわけではないのだ(^^;
 ほかの音楽ジャンルだと、ロックでもクラシックでも歌謡曲でも冷静な判断ができるのに、話題がジャズとなるとおかしなことを言い出す人が多いからじつに不思議だ。おそらくジャズという得体の知れない音楽をどう扱っていいかわからず、ちょっとした緊張状態になってしまうのだろう。

 「僕はよく船旅をするんだが、(豪華客船の)船上ではよくジャズの生演奏をやってるから、Masterなんか絶対喜ぶよ!」と言われたこともある。まあ、たしかに喜ぶかもしれんが、その前に豪華客船に乗る方がたいへんそうである。
 わたしの父があるときカセットテープを持ってきて、これをかけろというからかけてみたら、ジャズのスタンダード曲が流れてきた。これは何かと尋ねたら、ジャズのカラオケをテープに録音したのだという。だから何??( ̄▽ ̄;
 皆さん、Masterはジャズだったらなんでも喜ぶと思ってるみたいだけど、ジャズもピンからキリまでいろいろ。良いのもあればダメなのもある。クラシック好きがクラシックのカラオケテープ聴いて喜ぶか?ちょっと考えたらわかりそうなのに、それをわからなくしてしまうのがジャズという摩訶不思議な音楽なのである。

 エディ・ゴメス知ってる?

 先日の高槻ジャズストリートを観てきて、いろいろと感じることがあった。たとえばMCで「ベニー・ゴルソンが作曲した」とか、「ベースのエディ・ゴメスが」とか、紹介するわけだけれども、それに聴衆がいちいちうんうんと頷いたりして、ホンマにみんなエディ・ゴメス知ってるんかいな?と、不思議な感覚に打たれた。わたしも長年ジャズ好きを相手にしてきたが、エディ・ゴメスのことなんて話題に出たことは一度もないぞ(^^;
 どこの会場も盛況で、わかってるのかいないのか、じーっとジャズに耳を傾ける人たち。なぜか素直に喜べない。異様な光景である。こんなに大勢の人が、このときばかりはジャズファンになってしまうのだろうか。ここにいるほぼ全員がJimmyJazzのことを一切知らないか、名前は知ってても怪しんで決して近づかないのである。
 こういう人たちをジャズファンと呼ぶとすれば、果たしてわたしはジャズファンと呼べるのか。だんだん自信がなくなってきた。

 わたしがオーディオを好きな理由

 わたしがオーディオを好きな理由は、手持ちのレコードやCDの理解が進み、価値が増すからである。しかし、いくら音が良くなってもまったく良くならないソフトもある。たとえば『マイルス・ディヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』なんかは、CDをはじめて買って聴いたその日から今日までずっと良い音で、ほとんど音が良くなったという感じがしない。もちろん細かく言うなら音は良くなっているのだが、演奏じたいに曖昧な部分がないためか、誤解される余地がほとんどない。つまり高級なオーディオで聴いてもラジカセで聴いても音楽の価値が変化しないのである。

 音質により価値が変動する音楽とは、曖昧な部分の多い演奏のことである。音楽家は練習を重ねて、いくつものパターンから自らの「これしかない!」というフレージングを繰り出すのだけれど、ここに確信がないと良い演奏に聞こえないのだが、これはある程度オーディオの再現性があがることでカバーできる。縺れた糸を解くように、音楽家の意図がわかるようになるのだ。わたしなどほとんどそのためにオーディオをやってるみたいなもんだ。

 しかし『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』の「ザ・マン・アイ・ラヴ」みたいな凄い演奏になると、マイルスはセロニアス・モンクに「オレのソロのバックでピアノを弾くな」と指示し、これが奏功してシンプルで素晴らしい演奏になっている。ところがこのレコードを聴いた人々は、「モンクが怒って途中で弾くのをやめた」と解釈した。このレコードが「クリスマスイヴのケンカセッション」と呼ばれる所以である。演奏に誤解の余地はなかったが、聴いた人は別の誤解をした、というわけだ。

 高槻ジャズ

高槻ジャズストリートに行ってきた。高槻の街中が音楽で溢れる二日間。当店の休日と日程が重なるのはもう10年以上ぶりである。生演奏に対する飢餓感を満たすにはビッグバンドがよかろうとパンフレット片手に徘徊するが、どうもウキウキしてこない。やはりコンボ演奏がジャズらしくていいかなと思い直すが、これもイマイチしっくりこない。席を立とうと腰を浮かせたところで、ピアニストだけが交替、すると俄然音楽が活き活きと鳴り出した。
普段レコードで超一流の演奏ばかり聴いていて、理解できないのはオーディオの腕が悪いせいだとつい思ってしまうのだが、生演奏を聴いて面白くないのは、やはり演奏の腕次第なのだと気づくまでしばらくかかってしまった(^^;
それからは気持ちを切り替えて、これは合わないと思ったら即移動を心掛けて、あちこちの会場を愉しく聴いて回った。

 音が近い

 スピーカーから出た音は、たんに反射するだけでなくて様々なモノを共振させる。聴かせてる人の耳音響放射も共振の一種であるが、それ以外にも照明のシェード(傘)とか、部屋じたいのフラッターエコー、当店にいたってはシャンプーボトルまでが共振を起こして音楽に悪影響を及ぼす。これらの共振音は、微妙に音楽に似ているから悪影響があるわけで、まったく音楽に似てない音(たとえばアナログレコードの針音とか空調の音とか)は、さほど音楽鑑賞の邪魔にはならない。
 したがって、部屋の音を良くしたいと思うのなら、妙に吸音したり、ダンプして抑えつけたりせずに、共振してる音を音楽に影響のない音にずらしてやるのがいちばんだ。

 反対に音が良くなる耳音響放射のケースは、スピーカーの再生音とほぼ同じ音が近くに居る人の耳から出ているわけだから、位相に変化が生じて定位が動いたり、音がものすごく広がって聞こえたりする場合がある。ある方が2004年に当店に散髪にいらしたときの感想を「音が近い」と自身のブログで書いている。そりゃあ背後の至近距離に立ってわたしが頭を刈っているのだから、スピーカーより音が近くて当然なのだ。

 オーディオはヘッドホンと違う

 オーディオに熱心な人の多くが、左右のスピーカーから出る音をそのまま耳に突っ込んでやれば脳内で合成されて良い音になるような、まるでヘッドホンみたいなイメージを持っている。だから左右のスピーカーとリスナーは均等の位置で聞かないとだめだとか言って、レーザー光線できっちり測ったりする人もいるわけだが、では実際にスピーカーユニットからのみ音が出ているかといえばそうではない。
 スピーカーの箱も振動して音を放射してるし、その音を反射した背後の壁、天井、床からも音が飛んでくる。これはまずいと思って絨毯を敷いたり、背後にカーテンを吊ったり、スピーカーそのものにフェルトを貼って反射を抑えようとする人もいるが、それで完全に反射音がなくなることはなく、カーテンの音や絨毯の音、フェルトの音が出てくるだけで、決して「無かったこと」にはならないのである。
 むしろ、スピーカーユニットから出ている音はほんのわずかで、我々はほとんど反射した音を聞いている。この反射音をどう聞かせるかが肝になるのだ。

 試聴会の綱引き

 脱線した。話を耳音響放射に戻す(^^;
 たとえばオーディオ製品の試聴会などで、大勢のリスナーに一斉に聴かせるばあい、たしかにそれぞれ音には好き嫌いがあろうが、「いい音だな」と思って聴いてる人たちと、「ここがちょっと気になるな」と思ってる人とが、無言のうちに拮抗して綱引き状態になる。「いいな」という勢力の耳音響放射が増えれば「気になる」勢力の悪い耳音響を打ち負かしていい音で押し切ってしまうが、「気になる」雑音のほうが増幅されて勝ってしまうケースもある。

 実際に個人が自宅で音楽鑑賞するのとまるで関係ないことなのだが、大勢の前だと聴かせるほうにもメンツがある。それがプロならなおさらだ。メーカーは「さすが!」と思わせる新製品をうまく鳴らして「一本」を取ればデモンストレーションは成功、使った製品も売れるだろう。だが、そこでうまく鳴らなくても自宅で使ってみたらすごくいい場合もあるから、実際はなんとも言えない。自分一人聴くのと人に聴かせるというのでは、そういったややこしい違いがある。これは知っておいたほうがいいけれど、知らなくても困ることはほとんどない。

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