濃い人たち

ウェンディ・リー著「ライザ・ミネリ -傷だらけのハリウッド・プリンセス-」を読んで今月目標の17冊をなんとか達成。ジュディ・ガーランドの娘として生をうけた彼女のドラッグ禍の噂は知っていたが、それよりも付き合った男性(女性)の数がものすごい。相手ももセレブ揃いで、あの映画「ニューヨーク・ニューヨーク」撮影時には監督マーティン・スコセッシと交際していた。なんとも濃い顔のカップルだ。撮影現場には彼の子を宿した夫人が出入りしていたというのに。また、ロックバンドKissのジーン・シモンズが、麻薬治療中のサナトリウムに尋ねてきて交際がはじまったらしい。まさかあのメイクで来たわけではあるまいが。さらにアダム・アントとも付き合ってたというから驚きだ。アダム・アントといえば美形が売りのロッカーで、わたしが高校の文化祭で「アダム・アント風メイクで出ようと思う」と言ったら、バンドメンバーにお前みたいなブサイクが何を言うかと嗤われた。しかし、いざメイクをしてみたらソックリだと絶賛され、以来ずっとアダム・アントを強いられた。おっとライザ・ミネリの話だった。ハチャメチャな人生を生きてもなお、彼女は力強くとてもチャーミングだ。いつだったかわたしの夢は「キャバレー」を経営することだと言ったら、これまた勘違いされ嗤われた。

 バラバラコンポ

 オルガン奏者のジミー・スミスがこう言ったそうだ。「最近のやつらはレコードを作るのに何年もかけてけしからん。俺なんか30分もあれば充分だ」
 友人がCDを録音するためにスタジオに入ったそうだ。まず、メトロノームの音に合わせてドラムが叩くトラックを録る。それに合わせてベースを録音し、次にサイドギター、リードギターと重ねていき、タンバリン等のパーカッション、そしてボーカルを録音と、5分程度の曲の録音するのに気の遠くなるほどの時間がかかるそうだ。うまいバンドなんだから、それこそ一発録りでやってしまえばいいのにと思うのだが、そうはいかないらしい。
 その話をきいて、最近のJ-POPなんかがオーディオで鳴らしにくいのは、こうやってバラバラに録音するせいかもしれないと思うにいたった。バラバラに録音したものをひとつの音楽として再生するわけだから、バラバラになりやすいのは当然だろう。今でこそGPSクロックの恩恵でマルチマイクで録音された音源も鳴るようになったが、JBLの4WAYユニットはバラバラ、演奏もバラバラでやかましくてたいへんだった。コンポのスピーカーの小型化は、これらマルチのバラバラ録音と無関係ではあるまい。良い悪いは別にして、バラバラのものをひとつにまとめるのはあまりに難しい。

 2014年4月から大阪市バスの路線が変更に

 いま当店の前に「歌島三丁目」という市バス停留所が新設されている。今まで最寄りの停留所だった「北之町公園前」が廃止になるのかと思ったが、ここもそのまま残されるようで、終点だった「歌島橋バスターミナル」が廃止になり、そのまま「福町」まで行く、つまり、「大阪駅前」や「十三」方面から市バスで当店に来るには、92系統の「福町行き」に乗って「北之町公園前」で降りるか、42系統の「中島二丁目行き」に乗って「歌島三丁目」で降りるかのどちらかになる。バスでお越しの際はご注意ください。バス路線図

 JimmyJazz神去支店

 またか、と言いなさんな。その通り、三浦しをんの「神去なあなあ夜話」を読んだのである。今春映画化される「神去なあなあ日常」の続編だ。ひょんなことから携帯もインターネットもない山中の神去(かむさり)村で林業に携わることとなった二十歳の青年(前作では十八歳)が主人公の神去シリーズは、ハードなまほろ駅前シリーズとは対照的なかわいらしくほのぼのとした(作中の表現を使えばなあなあな)作品で、あの宮崎駿監督もアニメ化できないかと考えたという。たしかに宮崎アニメになった画を想像できるようなストーリーであるが、三浦しをん作らしく、少しあだるとなスパイスが効いていて、思わずニンマリしてしまう。
 登場人物の個性が際立っていて、白い犬のノコからスターウォーズのヨーダみたいな繁ばあちゃんまで、じつにいい味出している。この神去村という地名もまほろ市と同様作者の創作で、三重県の旧美杉村がモデルになっているという。それでも繁ばあちゃんの語る神去村に伝わる神話などを読むうちに、あたかも実在する村のようにストーリーに入り込んでいく。作者は乗りに乗って愛すべき神去の自然と住人たちを描き出す。悪人などひとりも出てこないのにこの面白さ!映画『WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜』も楽しみだ。

 OH!クレイジー!!

 我々日本人は、相手が自分に対して悪いことをしたとしても、反省している場合には水に流す、つまり忘れてあげることによって関係を改善しようとする知恵を持っているけれど、他国の民族も同じように考えると思ったら大間違いである。
 たとえばアメリカ人は、「リメンバーパールハーバー!」卑怯な真珠湾の奇襲攻撃を忘れるなと言うが、日本人は「東京大空襲を忘れるな」とは言わない。「ノーモアヒロシマ」という言葉もあるが、これはアメリカ人作家が言ってるだけで、当の日本人はアメリカの罪を水に流しているのだ。世界的に見れば、「忘れるなんてアホのすることで、覚えたり学んだりするほうが賢いのだ」という考え方のほうが主流なのである。
 また、日本人は古来より「いかに死ぬか」を大切にする。自分のいのちをどうやって大義のために使うか、立派に死んだかどうかで値打ちを測るようなところがある。いざとなれば責任を取るために自分の腹を切る。これも海外から見れば「OH! クレイジー!」と言われるだろう。わたしも時代劇を観るたびに。それは痛いからやめといたらどうかと思うのだ。親が危篤だというのに放ったらかして仕事してるのが立派だと言われたり、冷静に考えるとまったくおかしな国民である。
 芥川龍之介の小説で「おしの」という短編があるのだが、基督の生涯を説く青い目の神父と、死に様にこだわる日本のおっかさんとの考え方の食い違いに苦笑させられる。日本でキリスト教徒が一定数以上増えないのは、町に一人はこんなおっかさんがいるせいなのだろう。※「おしの 芥川龍之介(青空文庫)」無料で読めます。

 ある人は岩に刻み、ある人は水に流す

 「物悲しいブルースのコード」と言われて、皆さんはどのような響きをイメージされるのだろうか。一般的な西洋音楽の概念だと、長調(メジャー)の和音は明るく楽しい感じがして、短調(マイナー)の和音は暗く悲しい印象を受ける。ところがブルースのコードはこのどちらにも属さない不安定な7thの音を含む響きを持っていて、楽しいのか悲しいのかどうもはっきりしない。それがずっと聴き続けていると、ははあ、ブルースというのは、一言で言い表せない黒人特有の感情を内包しているのだなとわかってくる。彼らにとっては、このブルースフィーリングが物悲しさややるせなさを表現するに適したものなのだろうと思う。
 「ブルース」は彼ら民族独特の感情だから、真の意味で日本人がそれを理解することは難しいが、日本人にも「わびさび」であるとか、他民族には理解しにくいであろう感情が存在している。ブルースマンにわびさびを表現しろと言っても難しいだろうが、日本人にブルースを理解しろというのもまた難しい問題である。また、ブラジル音楽には「サウダージ」という言葉が頻繁に登場する。郷愁、憧憬、思慕、切なさ等の意味だが、これも「ブルース」や「わびさび」と同様に他民族が深く理解するのは難しいフィーリングなのだろう。
 さらに朝鮮半島には「恨(ハン)」という考え方や文化があって、これも同じように恨みつらみや悲しさを表す言葉だが、日本人が恨みや憎しみを水に流すことを美徳とするのに対して、朝鮮民族は恨みを忘れず持ち続けることをよしとする。彼らがしつこいのはそのためだ。そもそも文化が違うのである。

 少し背伸びをする知的好奇心を

 自らの表現力不足を棚にあげて、読者または聴衆の理解が得られないと嘆くなど言語道断である。面白いものやよい作品が作れないほうが悪いに決まってるのである。しかしながら、本でも音楽でも自分を引き上げてくれるようなものを選びたいものだ。ちょっとだけ難しい作品に触れて、自分の知らない世界が拓けていくことが重要なのだ。ジャズやクラシックは難しい音楽だ。このふたつのジャンルが好きな人というのは、やはり何か自分に理解できない要素があると感じて聴いているのだと思う。
 「ポップミュージック」「ポップス」と呼ばれる音楽は、ロリポップキャンディーやポップコーン等の駄菓子を語源にもつことからもわかるように、滋養や栄養分が少ない口(耳)当たりの良い楽曲のことを指す。そう考えるとマイケル・ジャクソンにつけられた「キング・オブ・ポップ」という称号は、あまり立派なものには思えなくなってくる。ちなみに、ルイ・アームストロングも「サッチモ」というあだ名のほかに「ポップス」とも呼ばれていた。ポップスもちょっと聴くにはいいけれど、すぐに飽きてしまうのが難点だ。その点ジャズは何回聴いても聞き飽きない。
 意味不明の芸術を薦めるわけではないが、少し背伸びをする知的好奇心を大事にしたいものである。

 歌はうまいへたで聞くものか

テレビでカラオケを歌う番組を観てると、うまいなあと感心することがある。いや待てよ、元の歌も聞いたことはあるはずだが、元の歌手の歌はうまいなどと思ったことがない。これは、オリジナルの歌手よりも歌がうまいということなのか、それともオリジナルはうまくて当然と脳が判定して、点数が甘くなるからうまいと感じるのだろうか?生演奏を聞くのと放送を聞くのとならば鮮度が違って差が出るのは当然だが、オリジナルもカラオケもテレビで聞いているのだ。やはり、うまいうまくないに焦点を合わせて聞いているから、うまさだけが際立って聞こえるのではないかと思うのだが。そうでなければ、オリジナルのプロ歌手よりも素人のほうがうまいということになってしまうではないか。

 JimmyJazzまほろ駅前店

 2013年にテレビ東京が放映したドラマ「まほろ駅前番外地」が好きだった。瑛太と松田龍平のふたりが演じる便利屋稼業。まるで「傷だらけの天使」を彷彿とさせる昭和っぽい色彩感が気に入って、毎週楽しみにしていた。エンディングテーマがやけにカッコイイので調べてみたら坂本慎太郎という人で、そこから彼が率いていたロックバンド「ゆらゆら帝国」にたどり着いたのだが、ジミヘンばりのサイケなギターがギンギンでこれまた最高だった。
 ドラマが終了したので、原作本も読んでみたくなった。三浦しをんとの出会いである。こんな男っぽいドラマの原作が女性だとは少し意外だったが、読んでみるととにかく面白い。「まほろ駅前多田便利軒」「まほろ駅前番外地」と続けざまに読み、他の著作も読んでいるうちにすっかり三浦しをんの大ファンになってしまっていた。特に箱根駅伝をテーマにした小説「風が強く吹いている」は正真正銘の傑作で、読みながら感じるあのランナーズハイにも似た高揚感は素晴らしいものだった。
 ところでこの「まほろ」とは、物語の舞台になる「まほろ市」のことで、「まぼろし」にかけてある。つまり実在しない架空の町を表しているのだ。当店もいつかこの町に支店を出したいものである。ヤバい客が来そうでちょっとドキドキするけれど。

 税率でなく税収を増やせ

 来月ついに消費増税が始まる。アベノミクスももはやここまでか。わたしはなにも税金払うのが嫌で増税反対と言ってるのではない。増税して税収が増えるなら結構なことだが、1997年は消費税を3パーセントから5パーセントにしたにもかかわらず、約4兆円も税収が減っている。8パーセントにして税収が増えるとは思えないから反対なのだ。これで税収が減ってもさらに10パーセントに増税する気だろうか?どうせ税金払うなら、もう少し景気を良くして、国民みんなで気持ちよく払えるようにしていただきたいものである。
 ジャズストリートの原稿、”誰の借金?『極東組曲/デューク・エリントン・オーケストラ』”は、2012年の夏、夜中にガバッと起きて普段使ってないノートパソコンを起動し、政府が国民に借りている借金を「国の借金」だと詭弁を弄する与党民主党に対し、こみ上げる怒りにまかせて書き上げた原稿だ。エリントンの顔が当時の野田総理に見えてきて一気に書いてしまった。エリントンに恨みはない。許せ。野田は一生許さないけど。

 手のタコと耳のタコ

 2010年の春、突如わたしの左掌にタコができた。「アイスパだこ」と名付けたこのタコは、熱いスチームタオルをかたく絞るためにできるのだ。アイスパは目の上にスチームタオルを乗せるサービスだから、タオルから水滴が出ると目に入ってしまう。そのためかたく絞る必要がある。この仕事をしてきて、それまでタコなんてできたことがなかったのに、アイスパのサービスで初めてできた。わたしのサービス精神がこのタコとなって凝固しているのだ。
 タコといえば、耳にもできている。本日久々にハービー・ハンコックの『テイキン・オフ』をかけたら、ビックリしましたね。なんじゃこれはと。耳タコ盤のはずが、まるで違って聞こえるのである。テーマメロディの下でハモるデクスター・ゴードンが生き生きと聞こえてくる。この部分にタコはない。これまでも聞こえていたはずだが耳に入ってなかったのだ。本日わたしの脳にこの奇跡的ともいえる再生音がインプットされた。こうなるとこのCDの音楽的価値は永遠に揺るがない。次に聴くのは何年後だろうか?たぶん次回はこれほどよく鳴らないだろうけど。

 教えられても身につかない

 ようやく最近になって、当店の音を聴いてオーディオに開眼したり、「これだけ音が良いのだから音楽鑑賞会をやってはどうか」などと、嬉しいことを言ってくださる方が増えてきた。「ベイシー」をはじめとする有名ジャズ喫茶のように最初から良い音が出てたわけではなくて、苦節15年、けちょんけちょんに貶されて、涙こらえながらここまできたのである。15年前オーディオを始めたばかりの自分が今の音を聴いたならおそらくビックリすると思う。時々、もうこれで良いのではないか、十分ではないかと思うほど自分でも満足している。ある意味、自分の求めるよりも良い音がするので、文句を言うのは恐れ多いほどである(^^;
「ここではちゃんと真ん中から音がするが、自分の家では、センター定位がふらふらする」と仰る方。あるある。オーディオやってるとそういうことってありますよねー。でも「リベラメンテケーブルを使えば一発で直りますよ」とは決して言わない。オーディオに強制は御法度。お節介な他人に教えられてもオーディオのノウハウは身につかない。もどかしくても自分自身で気づかないとダメなのだ。ああでもないこうでもないと試行錯誤して、あるときパッとインフラノイズの広告が気になる。おっ?もしかしてこれは良いのではないか?と購入を考えるに至るまでリベラメンテの「リ」の字も口にしない。それでいいのだ。

 くまあらし

 吉村昭著「羆嵐」を読む。1915年(大正4年)に北海道で起きた人食い熊の事件を元にした小説。まあこれが恐ろしいこと。貧しい農村に現れた人食いヒグマに総勢200人もの討伐隊で立ち向かうが、銃を持たせても役に立たない男たちの心許なさに終始ハラハラさせられる。現代なら自衛隊が出動してマシンガンでも撃てば収束するのだろうが、ろくに銃も撃ったことのない大正時代の農民だ。失礼ながらほぼ原始人みたいなものである。相手のヒグマは火も恐れず、死んだふりなどもってのほか。「食ったばかりだから暫く襲ってこないべ?」「んだんだ」なんて言ってると「ぎゃああああーーー!( ̄□ ̄;!!」ぜひご一読ください。

 汚辱と苦悩を歌う女

 今日は大山真人著「ビリー・ホリデイ―汚辱と苦悩を歌う女」を読んだ。そういえば先日お客さんとベニー・グッドマンの話になって、ベニーとビリーがデキてたという話をしたら、案の定意外な顔をされた。たしかにあの煌びやかなハリウッド映画「ベニー・グッドマン物語」の主人公と「汚辱と苦悩を歌う女」の組み合わせはイメージしにくいが、テディ・ウィルソン名義の『Of Thee I Swing』などで二人の共演を聴くことができる。黒人の客は決して取らなかったという幼い頃の娼婦体験はさておき、よくレスター・ヤングの恋人だったとされているビリーだが、気が合いお互いに尊敬しあっていた仲で、わたしには男女の関係があったようには思えない。正式に2度の結婚および離婚を経ているほか、「ミスター・ホリデイ」と囁かれる同性愛者でもあり、女優のタルーラ・バンクヘッドとも関係があった。あのマイルス・デイヴィスも11歳年上のビリーと「ちょっとあった」らしい。汚辱と苦悩を歌う女ビリーは、きっと誰もが自慢したくなるような女性だったのだろう。

 嘘は必ずバレる

世の中には平気で嘘をつく人がけっこういるが、バレないとでも思ってるのだろうか。わたしはつまらない嘘をついて、それがバレたときのあの情けなさと恥ずかしさを考えると、もう絶対に嘘などつくものかと思ってしまう。見てるこちらが恥ずかしい。ちっぽけな嘘は、人間の器が小さいことが露呈してしまうし、大きな嘘をつく人は世間から後ろ指をさされる。どっちにしても嘘はつかないに限る。

 ジャズの門は正面から開かない

 昨日読んだ石塚真一のジャズ漫画「BLUE GIANT」第一巻は、ほとんどが主人公宮本大のキャラクター描写に費やされていた。しかし、ちょっと設定が「いい奴すぎる」のではないかと思うのだ。友達思いで、努力家で、失敗にめげないポジティブな性格、親父さんも思う存分やれと言ってくれる。他の音楽、ロックとかクラシックなら、大のようなキャラクターでもいいと思うのだが、テーマがジャズとなれば話は違ってくる。

「目標は世界一のジャズプレーヤー」→「目標は仙台一のジャズプレーヤーになって女にモテること」
「ジャズが熱くてハゲしい音楽だから好き」→「ジャズはクールでかっけえから好き」
「やりたいことを応援してくれる理解ある親父」→「何でも反対するだらしないお袋」
「初ライブでコケてもめげない」→「初ライブでの失敗をいつまでも引きずる」
「目立つ河原で練習」→「コソコソ隠れて練習」
 このくらいダメなキャラにしておかないと、この先大がブルースを吹けるようになるか心配だ(^^;
 わたしの知るかぎりでは、すでに自分が「コルネットの王様」や「ブルースの女王」だと宣言したジャズメンは居たが、「世界一のジャズプレーヤーになる」なんて殊勝なことを言った有名ジャズメンは一人も居ないのである。

 漫画「BLUE GIANT」

 床屋の待合いに漫画はつきものだけれど、当店にも昔は漫画を置いていた。オープン前から買いそろえていた守村大の「万歳ハイウェイ」「あいしてる」、西風の「GTロマン」、弘兼憲史「課長島耕作」、本宮ひろ志の「天地を喰らう」「サラリーマン金太郎」、珍しいところではささきせい作「釈迦の十大弟子」、細野不二彦のジャズ漫画「BLOW UP」というのもあった。
 石塚真一の「BLUE GIANT」第一巻が本日アマゾンより到着。これもジャズをテーマとした漫画本である。ジャズに目覚めた男子高校生大がテナーサックスで世界一のジャズプレーヤーを目指すというストーリー。ジョン・コルトレーンのポスターにむかって「ジョン」と呼びかける大。ジャズファンならそこは「トレーン」だろ普通。当店の客待ちのマガジンラックに入れておくので、興味のある方はご覧ください。

 時代Master

 近年のNHK大河ドラマでは、「平清盛」がいちばん面白かった。なんであんなに視聴率が低かったのだろう。わたしは「龍馬伝」の十倍くらい面白いと思うのだが。「八重の桜」は、オダギリジョーの新島襄役が素晴らしかった。牧師さんの友達がいるのだけれど、色が白く皮膚が透明で、やっぱりあんな感じなのだ。聖書を毎日読むとああいう慈愛に満ちた貌になっていくのだろうか?「軍師官兵衛」はいまひとつ面白くならない。片岡鶴太郎の赤く塗った鼻がいかんのではないか。今後の巻き返しに期待しよう。
 それはともかく今月9冊目は高木彬光の「成吉思汗の秘密」を読んだ。源義経は衣川の戦いで自害したのではなく、じつは大陸に渡ってジンギスカンとなったという仮説を元にした歴史ミステリー。もちろんまったくのでっちあげ話であればしらけてしまう。文献を詳細に調べ上げて次々に出てくる根拠の数々は、それが本当かどうかは別にして、ワクワクするような話である。
 映画では木村拓哉の「武士の一分」がよかった。最近なんだか時代劇づいてるな。

 これからもよろしくお願いします

据え置き
 「消費税転嫁対策の特別措置法」というのがあって、表現方法が微妙になっていますが、これからもJimmyJazzをよろしくお願いします。

 Masterはジャズが大好き

 わたしは一度も小説を書いたことはないのだが、小説の書き方のハウツー本など読むととても勉強になる。たとえば、「アキラはマイルス・デイヴィスが大好きだ」と書くのはNGで、アキラがいかにマイルスのことが好きかということを、ほかの動作やセリフを駆使して表現しなければいけない。これは小説のみならず、評論にも当てはまると思う。評論家が、「私はチャーリー・パーカーが大好きなのである」とか書いてたら、そんなもの評論でも何でもないではないか。好きなのは一発でわかるが、それを言っちゃおしまいなのである。
 ジャズの演奏を上手下手で分けるのもナンセンスで、上手だからA級、下手だからB級というわけではない。ジャズは演奏が上手で当たり前、そのうえでどれだけ個性を光らせたかによって、ジャズファンはA級B級を(愛情をもって)分けているのだ。もし何かの小説のなかに「スタン・ゲッツはテナーサックスがうまい」と書いてあったらしらけるでしょう。そうでもないか(^^;
 わたしもお客様から「ジャズが好きなんですか?」と訊かれることが多いのだが、「そう、ジャズが大好きなんです!」とは直球すぎてなかなか言いにくい。なんと応えていいのか、気の利いたセリフが見つからないのである。
 あっ、でも片岡義男の本に「ぼくはプレスリーが大好き」というのがあったな(^^;

 B級ジャズと二流のクラシック

 何事も初心者のうちは、あれもこれもと広く浅く手を拡げるより、一点を深く掘り下げるほうが効率的だという話をした。たとえばインフラノイズの秋葉社長はクラシック専門で、ジャズをまったく聴かないけれど、聴かせてみると中途半端なジャズファンよりも演奏に関する価値判断が的確なのだ。これはクラシック音楽を深く理解していて、しっかりした価値判断の物差しができているからだと思う。ただし、言葉で「B級ジャズがいい」とか説明しても、社長はなんのことやらわからん様子。どうせ聴くならB級よりも超一流のほうがいいではないかと。
 「インフラノイズ製品を入れたら、凄い演奏がもっと凄くなった!」と言うと秋葉社長はたいへん喜ぶが、「これでB級ジャズマンの真価がわかった!」といってもピンとこないらしい。同じ譜面を演奏するクラシック音楽においてはB級はあくまでも二流のことであって、B級すなわち二流のよさなんてあったもんじゃないのだろう。日本語は難しいものである。

 遅れてきた「バグズ・グルーヴ」

ジャズ入門の際に、なるべく幅広くまんべんなくジャズを聴こうとしたのは間違いだった。少しずつレコードを集めるにだが、一人のアーティストにつき一枚を購入して100枚、つまり100人のアーティストを順番に聴いていった。この方法がじつはいちばん効率が悪い。今なら絶対にそういう買い方はしないだろう。私見だがジャズのCD100枚のコレクションがあるとしたら、そのうち30枚以上はマイルス・デイヴィスが占めるのが正しいあり方なのである。なぜなら、ジャズの歴史的重要盤の多くがマイルス・デイヴィスのレコードにあるからだ。まどろっこしい買い方をしたおかげで、たとえば『バグズ・グルーヴ』のCDを買うのがすごく遅かった。『バグズ・グルーヴ』のバグとは涙袋が大きいヴィブラフォン奏者ミルト・ジャクソンのあだ名であるから、ブルーノートから出ているミルト・ジャクソンのリーダー作を先に買ったが、これではダメ、というか、これだけで「バグズ・グルーヴ」を聴いたことにはならない。ジャズの決定版「バグズ・グルーヴ」とは、あくまでもマイルスの「バグズ・グルーヴ」なのである。

 インフラノイズ高音質CD-Rで焼いたエリントン

先日インフラノイズの高音質CD-Rのことを書いたら、驚き方が少なかったとみえたのか、「CD-Rは日々進化しているのだ!」と、同じデューク・エリントンのCDをまたまたCD-Rに焼き直したものが送られてきた。どうせなら違うCDを焼いてくれたほうが嬉しいのだが、同じCDで聴き比べよということなのだろう。
前回のCD-Rは、元のCDとAB比較して、アンサンブルの表現が良くなっていると感じたのだがこれは違った。比べるまでもなく、明らかな音質向上がみられる。解放感が段違いである。クラシックのオーケストラ録音用に教会を改造して作られたコロムビアスタジオの自然な残響音が見事に表現されている。
昔から、音楽CDはプレクスターのCD-RWドライブで太陽誘電のメディアに焼くと音がよくなるという話があったけれど、そういうレベルではなく、インフラノイズがリベラメンテやGPS-777で培った音楽再現技術を投入したCD-Rなのだ。

 丸刈りで読んだ筒井康隆

 高校二年の夏休みに蓄膿の手術をした。上唇の裏をぺろっとめくってノミとトンカチで鼻の骨を削るという、世にも恐ろしい手術を二回にわけて片方ずつ。髪を丸坊主にして3週間ほど入院していたが、鼻がガーゼでつまっている以外は元気なので、筒井康隆の文庫本を大量に差し入れしてもらい、片っ端から読んでいた。最後にはさすがに飽きてきて、「本ばかり読んでられるか!」と家からラジカセを持ってきてもらった。音楽っていいなあ、家に帰ったらレコード聴きまくるぞとしみじみ思った。
 このあいだ、筒井の「ジャズ小説」を読み返してみて、自分の書き方がかなり筒井の影響を受けてたことを発見した。筒井作品の内容はもうほとんど忘れてしまっていたが、物事をナナメから見たような文体は間違いなく筒井の影響。ああ、こういう書き方してる、してると笑ってしまった。なんだ、テラシマさんではなかったのだ。
 十九〜二十歳の頃はオートバイに乗ってたので片岡義男ばかり読んでいた。バイク乗りは雑誌ミスターバイクと片岡義男を読んで風になる(笑)ものと相場が決まってたのだ。ああ恥ずかしい。丸刈りで読んだ筒井康隆 リーゼントで読んだ片岡義男ってとこか。

 全体を知るために一点を深く掘り下げる

 先月の読書は11冊にとどまった。今月は少し飛ばしてすでに5冊。今年累計34冊を読了した。自分で決めたはいいが、年間200冊の読破はなかなかたいへんだ。目標として年間100冊がなかなか達成できなかったけれど、去年ようやくコツが掴めた。わたしの場合、次に読む本が常に手元にないと年間100冊以上読めないのである。一冊を最後まで読んで、ああ面白かった、次は何を読もうかな?と次の書籍を買いに行くようでは遅いのだ。何冊か同時進行で読みながらアンテナを張っておいて、気になった書籍はメモして注文を入れておく。そうやって常に3〜4冊程度手元にあるのがちょうどいい。これが何冊も溜まってくると、いわゆる”積ん読”という状態が苦痛になるので、読むスピードにあわせて調節する。
 次に、何を読むかという問題がある。ジャズと同じで、初心者は書棚を前にして「多すぎてどれを選べばいいのかわからない」と怖じ気づいてしまう。それに、「読んでも面白いのに当たらない」ということもある。これも攻略法はジャズの場合とまったく同じで、「何から読んでも構わない」というのが正解。
 Wikipediaで調べるように、気になったことがあったらとりあえずそのことをテーマにした本にあたる。もちろんハズレを引くこともあるけれど、読むだけ時間のムダだと思ったら、気にせず次の本を読んでいく。面白いものに出会えたら、その作者の本を集中的に読むのがいい。ジャズを理解するにはマイルス・デイヴィスだけ集中して聴くのがいいのと同じ理屈で、範囲を広げず一点攻略のほうが効能がある。全体を知るために一点を深く掘り下げるのである。最初は「本の選び方で考え方が偏るのでは?」という心配もあった。たしかにそれ一冊しか読まないから偏るだろう。しかし、ずっと読み続けるという前提ならば心配は無用。所詮、どんな生き方したって人間大いに偏るものである(^^;

 インフラノイズが高音質CD-Rを開発中

 インフラノイズが独自の技術で高音質CD-Rを開発中だ。試しに預けておいたデューク・エリントンのCDが、インフラノイズ技術によって複製されたCD-Rといっしょに送られてきた。うむ、たしかに音が良くなっている。元のCDよりも音が良くなるとはじつに不思議だ。これは市販されているCDなので限界があるけれど、マスターテープから興すCD-Rは、普通のCDとはまったく別物とのこと。ただしこれはパソコンのハードディスクにリッピングすると効果は半減、あくまでもCDプレーヤーでかけることが前提という。まずはインフラノイズがマスター音源を所有する有山麻衣子『幻のコンサート』がマスタークォリティーとなって近日発売予定。

 盗作疑惑

 読まれることを意識してものを書く人は、相手が自分の書いた文章を読んでるか読んでないか、少し話しただけですぐにわかってしまうものである。だから、本当は読んでないのに「ブログ毎日読んでますよ!」とか言われると、ありがとうございますと言いつつ、内心とてもガッカリする。お世辞でもそういう嘘はいけません。また逆に「この文章、絶ッ対俺のを見て書いたな」と思われるものに出くわすこともある。もうずいぶん前になるが、ネットサーフィンしていたら、どこかで読んだような文章を見つけた。とあるジャズのレコード紹介文、わたしもこういうことを書いた覚えがあるぞ。当ブログ内で同盤の検索をかけてみると、やはり同じような内容であった。それをなんとなく引き延ばしたり入れ替えたりしているが、明らかに当ブログを見て書いたと思われる。気になったので、アクセス解析で調べるとビンゴ!その記事の更新前夜に該当者のアクセスあり。まあ、そんな素晴らしい文章でもないので、いちいち目くじらたてずに放っておいたが、他人のブログを写してまで更新する意味があるんだろうかと理解に苦しむ(^^;
 素人ブロガーのみならず、某有名ジャズ評論家の本にも、アレッ?コレはもしかして?と思うフレーズが出てるのを見たことがある。たんなる偶然か?しかし同じジャズレコードを紹介して同じフレーズが登場する確率はそう高くないはずだ。念のため奥付の発行年月日を見てみたが、やはり初出はわたしのほうが先だ。おそらく著者に悪気があったわけではなく、インターネットで調べていて目についた当ブログのフレーズを無意識に書いてしまったのだろう。何かで読んだのを忘れてしまって、自分が考えたように書いてしまうことはあると思う。かく言うわたしも、別のジャズ評論家が書いたフレーズを無意識に使ってしまい、あとでその本を再読してシマッタ!と赤面したことがある。丸写しは問題だが、少し似てるくらいはお互い様だ。今まで散々勉強させてもらったのだから。

 テラシマさんの意外な配分

 全国のジャズ喫茶を紹介した昭和61年(1987)5月20日発行の季刊ジャズ批評別冊「ジャズ日本列島61年版」に、寺島靖国氏がジャズ喫茶メグのオーナーの立場でこんなことを書いている。”店主のジャズ以外の関心事”として、「50%をジャズが占め,25%をオーディオ,さらに25%を書物という配分で我が人生が成立している。」処女作「辛口!JAZZノート」の発刊が昭和62年10月だから、まだ作家デビュー前の話だ。「25%を書物」というとおり、氏はかなりの読書家なのである。
 マニアの間では、ジャズの解釈が正しくないとか、オーディオのやり方が間違ってるとかいろいろ批判されるけれど、寺島氏個人が好きか嫌いかつまり人格者であるやなしはひとまず置いといて、面白い文章を書くということについては異論はないと思う。感心するのは毎回違った切り口や必殺フレーズを見つけてくること。たくさん読んでないと絶対あんなふうには書けないのである。見ようによっては、ジャズだオーディオだというのは氏が面白い文章を書くための材料にすぎず、いちいち真に受けて赤くなったり青くなったりのジャズファンやオーディオマニアが「一杯食わされてる」ようにも見える。少なくとも我々に提示するところの氏の本質は創作家であって、必ずしもジャズやオーディオのスペシャリストではないのである。

 書き続ける秘訣

もう14年も前になるだろうか、こんなふうに日記を毎日更新していたことがあった。あの頃は、この程度の文章ならなんぼでも書けるわいというくらい調子に乗っていた。だが、二年ほど書いたところで、突如ぱったりと書けなくなってしまった。すわスランプかと焦ったが、知識の蓄えは底をつき、引出しはもうすっからかん。書き方がワンパターンで、同じようなことを書くのにすっかり嫌気がさしてしまった。ろくに勉強もせずに放電ばかりしていたら、やがて書けなくなるのは当然のこと。そんな空っぽの状態で雑誌やコラムの仕事をしてたから、けっこうキツかった。今は反省してまたコツコツ読書に励んでいる。当たり前のことだが、ものを書く人にいちばん必要なのはジャズを聴くことより日々の読書量なのである。

 プロでありつづけること

 プロになるだけなら一万時間の訓練でなれるとしても、じつはプロでありつづけることのほうが、その何十倍も難しい。
 音楽でも、デビューアルバムがいちばん良くて、二枚目、三枚目と出すうちに才能が枯渇してくるミュージシャンが多くいる。そりゃあ最初はこれまでの人生で培ってきたアイデアや才能が、じゅうぶんな発酵を経て発表されるのだから「衝撃のデビュー!」となるだろう。だが、デビュー作ですべてのネタを出し切ったなら、次回作からは、数ヶ月あるいは長くても一年以内に集めたネタで、前作を超える作品を作らなくてはいけない。渾身の一作を作ったらおしまいではなく、食っていくために毎日毎日創作を続けていく。それができなくなったら廃業。プロでありつづけるというのは、そういうことなのだ。

 されど人生29000日

 人生80年として、365をかけると29200日である(閏年含まず)。50過ぎの方だと、一日一時間ずつ訓練して一万時間を目指そうとすると、プロになるまえにお迎えが来そうである。毎日一時間などと悠長なことは言ってられない。ここは、一日15時間全身全霊で仕事に打ち込むことをおすすめしたい。さすればわずか二年でプロの領域に達するのである。会社勤めをしながら別のことをしようとすると無理があるけれど、たとえば蕎麦屋に就職してそば打ち修行を脇目も振らず二年間続ければ(程度の差はあれど)プロになれる。これはすごいことだ。今年入社する新前社員諸君も、残業やらされてうちはブラック企業だとか、労働基準法違反だとかつべこべ言わずに喜んで残業をすればいい。休みたい遊びたいも我慢して仕事に打ち込めば、二年後には同期の連中より頭一つ抜きん出ていること間違いなしである。

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